なんてことはない日常としての人類滅亡の乗り越え方


都会で生きる私には自然と人間、あるいは「人工」との明確な区切りは見出せない。新築の商業ビルにはネズミやゴキブリが棲みつき、人類はパンデミックになる以前から様々なワクチンを接種することで生存してきた。野菜や果物は品種改良によって繁栄し、人類と自然の関係は互いに混在することで成り立っている。人類は自然で、自然は人類である。物質的な食物連鎖、菌と宿主との相利共生、割り切れないもので世界は成立する。

人類は、約700万年前に登場し、いずれ絶滅する、地球や宇宙の生の中のほんの一瞬にだけ繁栄する種であるが、後にも先にもその歴史には、いわゆる「翁的なトポロジー」が(人類とは関係なく)存在する。

「翁」への考察は古くは金春禅竹の『明宿集』がある。そこでは「翁」は人間が感知し得ない存在全ての「あらわれ」として、壮大な宇宙観の中で記されている。「物事の区別以前の混沌」であり、その前には二項対立的なものですら、対立せずに成立してしまう。停滞した日常に揺さぶりをかけるその存在は、私たちの生命力を呼び覚ます。

能にしかなし得ないものがある。言葉ではもはや現代は救えない、と石牟礼道子は言った。

だからはじめは新作能を作ろうと考えていた。

それも天皇に関係する作品を作りたいと思った。考えてみれば私の自然との出会いは地元にあった皇居であり、それは立ち入れない向こう側でありながらも、身近な場所だったのだ。

皇室の生殖は直にこの国家の存続に関わる案件となる。天皇の血の血縁問題が未だに取り沙汰される。天皇という神性が天気天候や農作物の豊穣と深く通じていることは、我々が直面するエコロジカルな諸問題を、限りなく、当事者性を持ち、(主体的にも受動的にも)個人というものが、自然そのものとして受け入れる存在であるという事を示しているようだ。

天皇はもはや神ではない。しかし人権が無いままに日本国民の総意として働くこと……主に平成頃から始まった自然災害によって傷つけられた国民への慰めやその祈り……が、象徴として人々の心をいかに癒してきたか。

そのほんの少し前、近代天皇制が国家と深く結びついた時代の中で、産業を拡大した対価として、各地では大地が穢されるというフェーズを迎えた。かつてのままに海の魚を夕食として毎日漁をしていた海辺の人々が次々に異常をきたすという事件が起きて、猫や人間の身体は近代に適応できないよう歪められた。これは近代化を加速させた人類の課題であったとともに、海という複雑な生態系とそれを食すことで世界の一部となってきた人間との、シームレスな関係を再認識させられる出来事でもあった。

私が構想した新作能では、この公害病の原因になった「チッソ」を考察する予定であった。それが元を辿れば水力発電であり、この土地の土壌を改良する化学肥料を主な事業とする会社であったこと。人新世と呼ばれる地層が主に放射性物質と化学肥料によって形成されること。しかしチッソ/窒素がもとより作物の育成に欠かせない成分であること。そして土壌が人工的に作られなければならない背景には資本主義の加速がありながら、その当事者である人々が望んだものがどういうわけか天皇の訪問であったこと……。

天皇は公共そのものである。しかしながら、ヒトという種であり、個人でもある。そういえば「翁」という文字の中には、「公」が冠としてあるではないか。天皇が担う一つの側面——環境と公共とを通底する——「生態系」のようなものが個人の中に存在し得る……その一元論こそは、私たちが「根の国」から表出させたこの国家の個人観ではないか。

能は、しかしこの芸能の持っている性質に目を向けてみると、そこに登場するのは狂女や落人、幽霊や石などの「人外」、河原乞食など周縁にある存在など、いわゆる境界を彷徨うものたちばかりである。それらがあちらとこちらを同質に棲まう、その一片の物語の集積である。物語はいつも一方的な語りで始まり、終わりがないように終わる。決して分かり得ないはずの世界を一瞬垣間見たような気になった私たちは、気がつくとその終幕を迎えている。

「翁」が根源としてそこに見え隠れするのは、人類が人類以上のものとして存在することを明示しているからではないだろうか。そうした複数のものと絡まり合いながら、私たちが強固な主体から解き放たれた時……人類滅亡の危機は、むしろ終幕の如くサバイブするための「日常」の一幕となるかもしれない。


渡辺志桜里 2022